ムルシア (Murcia)
ムルシア(Murcia)は、スペイン・ムルシア州のムニシピオ(基礎自治体). ムルシア州の州都であり、人口は約42万人でスペイン第7位. 衛星都市を含めたムルシア都市圏は56万人で、都市圏としてはスペイン第12位. セグラ川に面する.
825年、ムルシアは「メディナト・ムルシヤ」という名前で、アンダルスを支配したイスラム教・後ウマイヤ朝のアミール、アブド・アッラフマーン2世によって建設された. アラブ人はセグラ川の流れの利点を活かし、複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた. これによって町は繁栄し、近代の灌漑システムの先取りとなった. 12世紀にアラブ人の地理学者イドリースィーは、この町を人口が多く、強く要塞化されていると述べている. コルドバのカリフが倒れると、ムルシアは順にアルメリア、トレド、セビリアの支配下に入った.
1079年にセビリア王国へ併合、1147年にはバレンシア王国と共に(通称ローボ王)の手に入り、1172年にマルダニーシュが死ぬと遺言によりムワッヒド朝の支配下に入った. 1223年から1243年までは独立した王国となった.
1224年にムワッヒド朝カリフ・ユースフ2世が子の無いまま亡くなり、後継者争いが勃発するとアンダルスでも小君主(タイファ)たちが台頭して領土が分裂する事態が発生、ムルシアの支配者も二転三転した. 同年にムルシア太守だったアブドゥッラー・アーディルがカリフを名乗ったが3年後の1227年に暗殺、弟のイドリース・マアムーンが後を継いだが、翌1228年に混乱の隙をついたイブン・フードがムルシアを乗っ取った. 1238年のフードの死後はアブー・バクルが支配していたが、1243年、カスティーリャ王フェルナンド3世の息子アルフォンソ(後のアルフォンソ10世)に率いられたカスティーリャ軍が迫ると降伏、ムルシアはカスティーリャの領土になった. 翌1244年にを推進していたアラゴン王ハイメ1世とアルフォンソがを締結、カスティーリャとアラゴンの国境も画定した.
1264年、グラナダ王ムハンマド1世がアンダルスのムデハル(キリスト教国在住のムスリム)を扇動して反乱を起こさせた. ムルシアも同調して反乱に加わったが、カスティーリャ王アルフォンソ10世の反撃に遭いムハンマド1世は和睦、グラナダから見捨てられた. 1266年にムルシアもカスティーリャの支援に来たハイメ1世の説得で降伏、再びカスティーリャが領有した(). 反乱後はムデハル追放でアンダルスの経済が打撃を受けた一方、アルフォンソ10世が推進したの翻訳活動拠点に選ばれ、1269年頃にキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の三教徒が学べる学校が創設された.
ムルシアに多くの移住者が北カスティーリャとプロヴァンスから移住した. 1296年、ムルシアとその領域はアラゴンに引き渡されたが、1304年、トレラス条約によって最終的にカスティーリャに編入された.
18世紀、ムルシアは絹織物業によって繁栄した. 教会や記念碑の多くはこの時期に建てられている.
ムルシアと周辺の地域は、1651年、1879年、1907年に洪水の被害を受けたが、堤防の建築はセグラ川を水路の中にうまく留めている. 有名な歩道マレコンは、堤防の上に引かれている.
1829年、ムルシアは地震に襲われた. 約6,000人の死者が出たと推定されている.
1838年にはムルシア県の県都となった. 1982年にはムルシア県単独でムルシア自治州が成立し、ムルシアはムルシア自治州の州都となった.
825年、ムルシアは「メディナト・ムルシヤ」という名前で、アンダルスを支配したイスラム教・後ウマイヤ朝のアミール、アブド・アッラフマーン2世によって建設された. アラブ人はセグラ川の流れの利点を活かし、複雑な灌漑用水路のネットワークを作り上げた. これによって町は繁栄し、近代の灌漑システムの先取りとなった. 12世紀にアラブ人の地理学者イドリースィーは、この町を人口が多く、強く要塞化されていると述べている. コルドバのカリフが倒れると、ムルシアは順にアルメリア、トレド、セビリアの支配下に入った.
1079年にセビリア王国へ併合、1147年にはバレンシア王国と共に(通称ローボ王)の手に入り、1172年にマルダニーシュが死ぬと遺言によりムワッヒド朝の支配下に入った. 1223年から1243年までは独立した王国となった.
1224年にムワッヒド朝カリフ・ユースフ2世が子の無いまま亡くなり、後継者争いが勃発するとアンダルスでも小君主(タイファ)たちが台頭して領土が分裂する事態が発生、ムルシアの支配者も二転三転した. 同年にムルシア太守だったアブドゥッラー・アーディルがカリフを名乗ったが3年後の1227年に暗殺、弟のイドリース・マアムーンが後を継いだが、翌1228年に混乱の隙をついたイブン・フードがムルシアを乗っ取った. 1238年のフードの死後はアブー・バクルが支配していたが、1243年、カスティーリャ王フェルナンド3世の息子アルフォンソ(後のアルフォンソ10世)に率いられたカスティーリャ軍が迫ると降伏、ムルシアはカスティーリャの領土になった. 翌1244年にを推進していたアラゴン王ハイメ1世とアルフォンソがを締結、カスティーリャとアラゴンの国境も画定した.
1264年、グラナダ王ムハンマド1世がアンダルスのムデハル(キリスト教国在住のムスリム)を扇動して反乱を起こさせた. ムルシアも同調して反乱に加わったが、カスティーリャ王アルフォンソ10世の反撃に遭いムハンマド1世は和睦、グラナダから見捨てられた. 1266年にムルシアもカスティーリャの支援に来たハイメ1世の説得で降伏、再びカスティーリャが領有した(). 反乱後はムデハル追放でアンダルスの経済が打撃を受けた一方、アルフォンソ10世が推進したの翻訳活動拠点に選ばれ、1269年頃にキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の三教徒が学べる学校が創設された.
ムルシアに多くの移住者が北カスティーリャとプロヴァンスから移住した. 1296年、ムルシアとその領域はアラゴンに引き渡されたが、1304年、トレラス条約によって最終的にカスティーリャに編入された.
18世紀、ムルシアは絹織物業によって繁栄した. 教会や記念碑の多くはこの時期に建てられている.
ムルシアと周辺の地域は、1651年、1879年、1907年に洪水の被害を受けたが、堤防の建築はセグラ川を水路の中にうまく留めている. 有名な歩道マレコンは、堤防の上に引かれている.
1829年、ムルシアは地震に襲われた. 約6,000人の死者が出たと推定されている.
1838年にはムルシア県の県都となった. 1982年にはムルシア県単独でムルシア自治州が成立し、ムルシアはムルシア自治州の州都となった.